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伝統楽器の音響分析データ活用:シンセシスとサウンドデザインへの応用

Tags: 音響分析, シンセシス, サウンドデザイン, 伝統楽器, 現代技術

伝統楽器の音響分析データ活用:シンセシスとサウンドデザインへの応用

現代の音楽制作において、伝統楽器の持つ独特な音色や響きは、創造的なサウンドデザインの豊かな源泉となり得ます。しかし、これらの音響特性を単なるサンプリング素材として扱うだけでなく、その構造や振る舞いを科学的に分析し、現代的なシンセシスやサウンドデザインに応用するアプローチが注目されています。この手法は、伝統楽器の持つ本質を深く理解しつつ、全く新しい音響表現を創出する可能性を秘めています。

本記事では、伝統楽器の音響を分析し、そのデータを現代の音楽制作に活かすクリエイターの一人、サウンドデザイナー兼作曲家として活動する田中一郎氏の取り組みを例に、その手法と可能性を探ります。

サウンドデザイナー・作曲家 田中一郎氏のアプローチ

田中氏は、大学で音響工学を専攻後、電子音楽制作と伝統音楽の研究に携わってきました。特に、箏や尺八といった日本の伝統楽器が発する複雑な倍音構造や、演奏によって生まれる非定常的な音響現象(アタックのノイズ、サステイン中の揺らぎ、減衰特性など)に着目し、これらを科学的に分析する手法を自身の制作に取り入れています。

田中氏のアプローチの核となるのは、伝統楽器の演奏音を録音し、スペクトル分析(FFTなど)やエンベロープ解析、周波数トラッキングといった手法を用いて詳細に音響特性を把握することです。この過程で得られるデータは、単に波形を見るだけでなく、例えば特定の奏法(箏の押し手、尺八のムラ息など)がどのような倍音構造の変化やノイズ成分を生み出すのか、あるいは楽器の個体差が音色にどう影響するのか、といった深い洞察を可能にします。

音響分析データのシンセシスへの応用

分析によって得られたデータは、現代的なシンセサイザーの設計やパラメータ制御に直接的に応用されます。例えば、箏の特定の音の倍音構成比率や時間的な変化を基に、加算合成シンセサイザーのオシレーター構成やエンベロープを設定することで、伝統楽器の音色の「質感」をデジタル空間で再現あるいは拡張する試みを行っています。

また、尺八の多様なアタックノイズやムラ息に含まれる非整数倍音成分の分析結果を、物理モデリングシンセサイザーの励振モデル(excitation model)や共鳴器モデル(resonator model)に反映させることで、より有機的で生々しい音色生成を目指しています。さらに、グラニュラーシンセシスのソースとして分析音を使用し、そのグラニュール(音の断片)の長さや再生速度、密度、ランダム性といったパラメータを分析データから制御することで、伝統楽器の響きを再構築し、新たなテクスチャやサウンドスケープを生み出すことも可能です。

DAW上では、これらの分析結果を基に設計されたカスタムシンセプリセットを使用したり、音響分析プラグインでリアルタイムに得られるデータをMIDI CCやOSC信号に変換し、他のソフトシンセやエフェクトのパラメータを制御したりといった、先進的な活用も行われています。

サウンドデザインと表現の拡張

音響分析から得られる洞察は、シンセシスだけでなく、より広範なサウンドデザインの領域にも応用されます。田中氏は、分析を通じて発見した伝統楽器特有の「間」や「揺らぎ」といった時間的な要素や、空間的な響きの特性を、リバーブやディレイ、モジュレーションエフェクトの設計や設定に反映させています。例えば、特定の楽器の共鳴特性をインパルス応答(IR)として取得し、コンボリューションリバーブに使用することで、その楽器が持つ空間的な響きを再現したり、あるいは意図的に誇張したりすることが可能です。

これらのアプローチは、楽曲制作のみならず、映像作品やゲーム、インスタレーションにおけるサウンドデザインにおいても有効です。伝統楽器の音響の本質を理解した上で生成・加工されたサウンドは、単なるBGMや効果音としてではなく、物語や空間に深みとオリジナリティを与える要素となります。異分野のクリエイターとのコラボレーションにおいても、伝統楽器の音響分析という明確な手法を示すことで、共通理解に基づいた円滑なコミュニケーションと、予期せぬ相乗効果を生み出すことが期待できます。

創作における伝統と革新のバランス

田中氏は、この音響分析に基づくアプローチが、伝統楽器に対する深い敬意と理解の上に成り立っていることを強調します。分析は、伝統的な奏法や音色がいかに精緻に設計され、受け継がれてきたかを明らかにする手段であり、単に新しい音を作るためのツールではありません。伝統の本質を掘り下げることで、現代技術を用いた革新的な表現の方向性が見えてくると述べています。インスピレーションの源泉は、伝統楽器の持つ豊かな歴史、そして音そのものの中に隠された微細な振る舞いにあります。

この活動を通じて、伝統楽器の持つ音響的な魅力が現代的な文脈で再評価され、新たなサウンドデザインの可能性が広がることを田中氏は目指しています。そして、他の演奏家やクリエイターが、自身の楽器の音響を分析し、独自の現代的アプローチを探求するきっかけとなることを願っています。

まとめ

伝統楽器の音響分析とそのデータ活用は、単に伝統を保存するのではなく、その本質を理解し、現代の技術と融合させることで新たな表現領域を切り拓く有力な手法です。シンセシスやサウンドデザインへの応用は、伝統楽器の音色や響きを解体・再構築し、これまでにないサウンドスケープを生み出す可能性を示しています。このような科学的アプローチは、伝統楽器奏者やサウンドクリエイターにとって、自身の技術を深め、創作の幅を広げ、異分野との協力を促進するための重要なヒントを提供してくれるでしょう。伝統楽器と現代技術の融合は、今後も多様な形で進化していくことが期待されます。