フィールドレコーディングと伝統楽器の響き:笛奏者・中村哲也のサウンドスケープ実践
フィールドレコーディングと伝統楽器の響き:笛奏者・中村哲也のサウンドスケープ実践
現代邦楽の世界では、伝統的な響きと現代的なアプローチを融合させる様々な試みが行われています。デジタル技術の活用、異分野とのコラボレーション、そして新たな表現技法の探求は、この分野の可能性を大きく広げています。本稿では、笛奏者として活動される中村哲也氏の取り組みに焦点を当て、フィールドレコーディングという手法を伝統楽器の演奏と組み合わせることで生まれる独自のサウンドスケープ表現についてご紹介します。
中村哲也氏の活動概要
中村哲也氏は、篠笛、能管、龍笛といった日本の伝統的な笛を専門とする演奏家です。伝統的な奏法や楽曲への深い理解を持ちながらも、音楽を取り巻く「環境」や「空間」への関心を強く抱き、自身の演奏を新たな文脈に位置づける活動を展開されています。コンサートホールでの演奏に加え、自然の中や歴史的な建造物といった特定の場所でのパフォーマンス、そしてそこで採取された音源(フィールドレコーディング)を用いた作品制作に積極的に取り組んでいらっしゃいます。
フィールドレコーディングと伝統楽器の融合
中村氏の現代的なアプローチの核の一つが、フィールドレコーディングの活用です。これは、演奏会場やスタジオといった管理された環境から離れ、特定の場所の音(自然音、環境音など)を録音する手法です。例えば、森の風の音、川のせせらぎ、都市の喧騒、古い寺院の静寂など、その場所固有の「響き」や「雰囲気」を音源として採取します。
中村氏は、このフィールドレコーディングで得られた音源を、自身の笛の演奏と組み合わせて作品を制作されます。これは単にBGMとして環境音を流すのではなく、環境音そのものを作品の重要な構成要素として捉え、笛の音色や旋律と相互に作用させることを目指されています。
サウンドスケープ表現へのアプローチ
中村氏の作品は、しばしば「サウンドスケープ」という視点から語られます。サウンドスケープとは、特定の環境における音の風景を指す概念ですが、中村氏はこの概念を自身の創作に取り入れ、笛の音を通じてその場所の空気感、歴史、あるいはそこに流れる時間そのものを表現しようと試みます。
例えば、古い森で録音した自然音と笛の演奏を組み合わせる場合、森の木々のざわめき、鳥の声、遠くの風の音などが、笛の響きと溶け合い、あるいは対比することで、聴き手は単なる音楽としてだけでなく、その森に身を置いているかのような感覚を覚えるかもしれません。笛の持つ幽玄な音色が、自然の持つ時間の流れや広がりと呼応し、独特の世界観を創出します。
現代技術の活用
フィールドレコーディングと伝統楽器の融合を実現するために、中村氏は現代的な録音・編集技術を積極的に活用されています。
- 録音機材: 高品質なフィールドレコーダーとステレオマイクやバイノーラルマイクを使用し、臨場感のある環境音を採取します。特定の場所の音響特性を捉えるため、マイクの設置場所や方法にも工夫を凝らされています。
- DAWソフトウェア: 録音したフィールドレコーディング音源と、別に録音した笛の演奏音源をDAW(Digital Audio Workstation)ソフトウェアに取り込み、編集、ミキシングを行います。複数のトラックを重ねたり、音量のバランスを調整したりすることで、複雑な音の層を作り出します。
- エフェクト処理: リバーブ(残響)やディレイ(反響)といったエフェクトを効果的に使用し、音に空間的な広がりや奥行きを与えます。フィールドレコーディング音源の持つ空間性を強調したり、笛の音色を環境音に馴染ませたり、あるいは際立たせたりするために重要なプロセスです。また、EQ(イコライザー)を用いて特定の周波数帯域を調整することで、音源ごとの音色や質感をコントロールします。
これらの技術を用いることで、中村氏はフィールドレコーディング音源の持つリアリティと、笛の持つ音楽的な要素を繊細に組み合わせ、従来の楽器演奏だけでは表現し得なかった奥行きのあるサウンドを生み出しています。
創作における思想とインスピレーション
中村氏の創作活動は、伝統楽器の持つ「時間」や「空間」に関する感覚と、フィールドレコーディングが捉える現実の環境の「時間」や「空間」との対話であると言えます。伝統的な笛の楽曲や奏法に脈打つ古来の時間感覚や自然観を理解しつつ、現代のテクノロジーを用いて現実世界の特定の場所の響きを取り込むことで、過去と現在、そして自然と人工、楽器の音と環境音が交錯する独自の表現を追求されています。
インスピレーションは、特定の場所を訪れた際の肌感覚、目にした風景、耳にした音、そしてそこで感じた歴史や物語から得られることが多いそうです。その場所で何を感じ、どのような音を聴き、それを笛の音とどのように結びつけることができるか、という問いが創作の出発点となります。
今後の展望と読者へのヒント
中村氏は、自身のサウンドスケープ作品の発表に加え、その制作プロセスに関するワークショップなども行うことで、伝統楽器奏者が自身の活動領域を広げるためのヒントを提供されています。フィールドレコーディングという手法は、必ずしも高度な音楽理論や複雑な演奏技術を必要とせず、自身の楽器と周囲の環境への attentive な耳を持つことから始めることができます。
伝統楽器の響きを、普段演奏している空間とは全く異なる文脈、例えば自然の中や街の片隅に置いてみることで、楽器の新たな側面や可能性に気づくかもしれません。DAWや基本的な録音機材は、現代では比較的容易に入手・学習可能です。自身の楽器の音と、身近な環境音を組み合わせてみることから、新たな創作の扉が開かれる可能性を秘めています。
中村哲也氏の活動は、伝統楽器奏者が現代的な表現を追求する上で、技術的な側面だけでなく、音楽を取り巻く環境やコンセプトといった多角的な視点が重要であることを示唆しています。フィールドレコーディングという手法は、伝統楽器の響きに新たな息吹を与え、聴き手にこれまでとは異なる聴取体験をもたらす可能性を秘めていると言えるでしょう。